孤児院では殴られてばかり、愛してるって今更言われてもどうでもいい…ルーマニア独裁政権悲劇の遺産
『ようこそ『ルーマニア』へ』
米コロラド州デンバー郊外の邸宅に住むイシドル・ラックル(’20年現在39歳)は、痩身で物腰の柔らかいルーマニア人だ。
流暢な英語を話す彼は、KFCの統括部長として週60~65時間働いている。がその黒い瞳は憂いに満ち常に何かを警戒している。イシドルの家はまるでルーマニアの田舎の家のレプリカの様だ。
ハンドメイドの絵付けの皿、ティーカップ、刺繍のタオル、厚手のラグなどルーマニアの民芸品であふれる彼の家は、故郷ルーマニアに行く度に買いそろえたもの。ルーマニア人は彼を見ると『どこから来た?』と言うらしい。
『ルーマニア北部のマラムレシュですと言っても誰も信じない。無理もない。私はルーマニアを離れて20年にもなるのだから。』どんなに民芸品を買って家の中を埋め尽くしてもイシドルには取り戻せないものがある。
独裁政権の落とし子が捨てられる孤児院
イシドルは、1980年6月20日、チャウシェスク独裁政権下のルーマニア北部マラムレシュで生まれた。
42歳以下の女性の人工中絶と離婚を法律で禁じた政策により、貧しい国民は『口減らし』目的で生まれたばかりの子供を国立の孤児院に預けた。
孤児院とは名ばかりで『ピネル病院』並のずさんな管理と社会悪のすりかえの元に成り立った施設で、子供たちは食用に適さない流動食を与えられていた。
孤児は3歳になると振り分けられ、健康な子供は将来の働き手として、衣服、靴、食品と住む場所が与えられ、学校に行く子供も居た。
だが障害をもった子供は、かつての日本がそうであったように、街はずれの『回復不能時の為の病院』に放り込まれた。
イシドルもその中の1人。貧しい一家の3人姉弟の末っ子として生まれたが、生後6週間でポリオを発症。困り果てた母親は孤児院に放り込んだ。
5階建ての病院の3階でイシドルは鉄格子ごしに外を見て過ごしていたという。
狭い建物に押し込まれた子供たちの殆どが裸で、体を揺らし、お互いの顔をたたき合い、金切り声で叫ぶ日々。
治療の名目で使用される注射針は殺菌されず使いまわし。大人の血を輸血された子供たちはわずか2歳でB型肝炎やエイズに罹患していた。
89年に独裁政権が滅び、’90年に米国ABCが『国家の恥(Shame of a Nation)』として放送するまで、孤児院の事は世界中の人々は知らなかった。
『アメリカに来る気はある?』『行きたい!』
イシドルがこの施設からラックル夫妻によって里子に迎えられたのは11の時だった。
マークスは成人の就労コーチ、ダニーはプログラマーで、イシドルの他に4人の里子がいる。イシドルを迎える時は『もう1人増えたら家族はもっと楽しくなる』という軽い気持ちだった。
が、夫妻に養子縁組仲介をした自主映画監督のジョン・アプトンは、イシドルに初めて会った時、そして施設の様子を初めて見た時の印象はそんな楽観的なものではなかったと語る。
米ABCのドキュメンタリーを観た4日後にルーマニア入りしたアプトンは、その時既に世界各国から施設あてに寄付金が集まっているのに肝心の孤児たちに行きわたっていない事に憤りを覚えていた。
半ば抜き打ちで施設を訪れた所、孤児たちは寄付された服を着せられていたが、体を揺らし、お互いをたたきあう不自然さだった。
保育士でさえ子供の名前と顔も覚えていないのに、1人の子供だけが収容されている子供の名前を英語で紹介した、それがイシドルだった。
当時10歳、体重は23キロしかなく、見た目は小学校1年にしか見えなかったという。
日曜の晩に米国の海外ドラマを見て覚えた英語で、イシドルは必至でしゃべってきた。自由への切符を手に入れるかの様に。
『アメリカに来る気はある?』『行きたい!』
しかしイシドルが里親になつくかと言われれば、それは別問題だった。
孤児院では殴られてばかり、私たちの子供だって今更言われてもどうでもいい
イシドルがラックル夫妻に引き取られたのは’91年、イシドルはラックル家に馴染むことはなかった。それどころか常にピリピリした生活を送っていた。
『ラックル家でケンカする度に、お前を養子にするんじゃなかった、病院に送り返してやるぐらい言われた方が気が楽だった。』イシドルは引き取られ当時を振り返る。
ラックル夫妻はイシドルは14ぐらいまで毎日機嫌がわるく警戒心と自尊心が人一倍強い子供で、常に気を遣わなければいけなかった言った『そのために他の4人の子供の機嫌が悪くなった事もよくありました。』
ラックル夫妻は他の4人の子供は家で教育を受けさせていたが、イシドルは学校に行くと譲らなかった。彼の流暢な英語は、その賜物だ。
『孤児院では殴られているか、そうでないか、どちらかしかなかった。お前は特別だ、私たちの子供だなんて言われてもピンとこない。あ、そうなの、そんな事どうでもいいよって思う。』
乱暴な事をしたから自分の部屋に行けと言われれば、わざと音をたてて階段をあがり、部屋でルーマニア音楽を大音響でかけたり、
家族の写真をかたっぱしから破り捨てた。
『誰も居ないとホっとするんだ。』
ある晩、イシドルが夜中の2時に帰ってくるとドアに鍵がかかっていた。イシドルがドアを叩くとマーリスは『貴方の荷物はガレージにあるわ』と言った。もしも実の息子であれば、ここまでしないだろう。
それをきっかけにイシドルは家を出て知り合いと同居した。
イシドルが18の時、マーリスはケーキを焼きイシドルのアメリカ暮らしを収めたアルバムを作り同居人に渡した。だが彼女が玄関のドアを開けようとした時目の当たりにしたのは、地面に叩きつけられたアルバムだった。
貧乏人だから見舞いにいけないという母
20になったイシドルは複数のテレビ局に手紙を書き、故郷に帰るネタを売り込んだ。
それに喰らいついたのが米ABCだった。’01年3月25日彼はルーマニアに帰った。
因縁深い孤児院で王子様の様な待遇を受けた後、イシドルはそこから3時間以上離れた生家を撮影隊と共に尋ねた。だがそこで待ち受けていた現実はあまりにも残酷だった。
木が全く生えていない泥土の広がる掘立小屋、全くしらない人のようにすれ違う実の父、『“Ce mai faci?”(元気か?)』『“Bun,”(うん)』。
実の父親を目の前にしても、これだけしか言えない。電気も水道もない土間の家がいかに貧しいかが判った。
イシドルは何故病院に入れられたのか、恐る恐る母親に聞いた。実の母マリアの答えはあまりにも醜いものだった。
父親には仕事がなかった、貧乏人なんだから仕方がない、11年間見舞いにいけなくてもどうしようもないと言った挙句、アメリカ人の母親に食べさせて貰ってないんじゃないか、ここで働いて家族を食わせろ、家を建てろとすがってきたというのだ。
疲れ果てたイシドルは実家が怖くなり、数週間後アメリカに戻り、ファーストフード店で働きはじめたが、ラックル夫妻の所に戻ることはなかった。
15の時に家族は持たないと決めた
イシドルは、自分自身に様々なものが欠けているのは自覚しているという。
愛されていてもそれを返すことが出来ない、だから家族をもつことも人の親になることもないと。
『僕はあの家を出た時から家族を持たないと決めいるんです。
嫉妬、支配、陰鬱に満ちた家族関係にある友人をみてこれはないなと思ったんです。私に近づきたいと思う人間もいないだろうし、誰かが近づこうとすれば逃げ出してしまうでしょうね。』
そんな彼がルーマニア民芸品を買い続ける理由があるとすれば、彼の自叙伝の中でてくる1人の保育士との思い出だろう。
イシドルは8つの時に黒髪の保育士オニサと出逢った。
他の保育士に暴力を振るわれている時や、別の子供に殴られたイシドルをかばい、歌を教えたのがオニサだった。
オニサはある日イシドルに家に連れて行ってあげると約束し、実現してくれたという。
街を行きかう自転車、家並み、店、全てが幼いイシドルの目に新鮮に映った。初めて口にするルーマニア郷土料理サルマーレ(ロールキャベツ)の味も忘れられなかった。
もしもあの時、オニサの家に留まり続けたいたなら、彼は今の様に『愛情が欠けた人間』にならなくて済んだかもしれない。
イシドルが今もルーマニアの民芸品を買い集めるのは、埋められない思い出を埋める為かもしれない。
30 Years Ago, Romania Deprived Thousands of Babies of Human Contact
https://www.theatlantic.com/magazine/archive/2020/07/can-an-unloved-child-learn-to-love/612253/
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